信濃に根付く、鉄づくりの魂

戦国時代、鉄を制する者は、農具・工具を独占して民を豊かにし、強力な武器で軍事を制しました。
しかし、その原料となる鉄資源の産地は限られていました。
その源流を遡ると、5世紀頃に大陸から渡来した秦氏のような技術者集団に行き着きます。
彼らがもたらした先進的な金属加工技術は、数世紀をかけて日本全土に広まり、日本の風土に合わせて独自の進化を遂げました。
特に、日本刀の材料となる「玉鋼(たまはがね)」を生み出した「たたら製鉄」は、その技術的到達点の一つです。
そして信濃国に、この古代からの技術の潮流と無関係ではいられない有力氏族がいました。
諏訪大社下社の神官家でもあった金刺氏です。
彼らのように、信濃には古くからの伝統を受け継ぐ勢力が存在し、高度なものづくりを支える文化的土壌が形成されていました。
真田氏の祖先である海野氏は、まさにこの金属加工の伝統が根付いた地に勢力を張っていました。
そのために、常に外部から圧力がかけられ、政治的にも難しいバランスを取る必要があったと考えられます。
そうしたことからも、彼らは、この地に眠るポテンシャルを肌で感じていたはずです。
真田昌幸は、この古代から続く「見えざる技術の道」が持つ戦略的価値を感じていたのかもしれません。

そして、真田昌幸が徳川の大軍を二度にわたり退けた上田合戦。
その勝因の一つに、真田軍が駆使した「鉄砲」の存在があったと言われています。
しかし、当時、鉄砲は非常に高価で、弾薬の原料となる鉛や火薬の確保も困難な最新兵器でした。
なぜ、信濃の山深い一地方領主であった真田氏は、これほどまでに鉄砲を巧みに、そして大量に運用することができたのでしょうか。
その答えは、古代からこの地に受け継がれてきた、見えざる一本の道、「鉄の技術の道」の物語を読み解くことで見えてきます。
まず鉄の話について。
古代、日本の鉄生産は、二つの大きな流れを持っていたことを知っておいたほうが良いでしょう。
一つは、出雲(島根県)を中心とする西日本の先進的な「製鉄技術」。出雲大社と製鉄技術の縁は切っても切れません。
そしてもう一つが、越後の国(新潟県)や東国(関東地方)で採れる豊富な「鉄資源」です。
これら西の技術と東の資源が出会い、中央(畿内)の朝廷へと繋がる、東の重要な道となったのが、上田を貫く古代のハイウェイ「東山道」でした。
製鉄遺跡の分布を見ても、その痕跡を感じることができます。


この「鉄の道」の重要性は、沿道の神々の存在から読み解くことができます。
上田から都へ向かうには、途中に諏訪大社が鎮座します。
ただし、諏訪大社に直接「鉄の神」という祭神がいるわけではありません。
しかし、古代の鉄の祭器である鉄鐸が発見されていること、そして祭神・建御名方神の神話に鉄の存在が間接的に示唆されていることから、古来、製鉄と深く関わった氏族に篤く崇敬されてきた、鉄と極めて密接な関係を持つ地だと考えられます。これは先の金刺氏とも関係が深いことからも読み取ることができます。
さらに、東山道が向かう先には、畿内への中継点であり一大経済拠点でもあった尾張国(愛知県)と、全国屈指の金属加工技術を誇った美濃国(岐阜県)が控えていました。
特に尾張に鎮座する熱田神宮は、日本の武力の象徴である神剣「草薙の剣」を祀る、まさに鉄の信仰の一大中心地とも言える場所。
鉄の集まるところは、経済も発展することは、現在の愛知県の産業構造を見ても明らかです。

2.【技術】城下の軍事工業地帯「鍛冶町」

資源がに加えて、加工する高度な技術があってはじめて「鍛冶」は成立します。
真田昌幸がこの地に鍛冶職人を集めることができたのは、決して偶然ではなく、祖先の故郷であり、古くからの鍛冶の伝統が残る「海野郷海善寺村」から、腕利きの職人たちを計画的に移住させることができました。
この背景には、古代から続く信濃国の開発史と、中央から派遣された巨大氏族たちの物語があります。
一説によれば、古代、信濃国の開発を主導したのは、朝廷の軍事を司った物部氏。
彼らは、馬の飼育や金属加工の技術を持つ渡来人、特に秦氏が持つ技術などを積極的にこの地へ導入し、国家的な事業として牧や工房を整備したと言われています。
そして秦氏がもたらした製鉄やたたらの技術を中核とする技術は、山々を移動しながら資源を確保する「山人」たちが中心となって独自の文化を形成しました。
そして、真田氏の祖先である滋野・海野一族は、この「山人」たちと深く接触し、その高度な技術と文化を吸収・融合させていったのです。
昌幸が築いた「鍛冶町」とは、単に職人を集めたのではなく、古代、秦氏の渡来から始まったこの地のハイテク技術の伝統を受け継ぐ者たちを、戦国という新しい時代に最適化された「軍事工業地帯」として再編成する、壮大な事業だったのです。
また昌幸が築いた「鍛冶町」の真価は、鉄砲をゼロから作る「製造工場」というよりも、戦争を継続するための「兵站基地」としての役割にありました。
当時、鉄砲の主要生産地は堺や国友に限られていましたが、購入した最新兵器を修理・維持し、破損した部品を自前で製造し、そして何より弾丸を安定供給する。
この自己完結した兵站システムこそが、真田の強さの秘密だったのです。
鍛冶町とは、古代の技術の伝統を、戦国のリアリズムの元に再編成した、昌幸の恐るべき戦略眼の象徴でした。
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