真田信繁(幸村)公で有名な真田一族の里「信州上田」は、映画「サマーウォーズ」の舞台となった理想の田舎です。
東京から新幹線で1時間30分。信州上田には、私たちが大切にしてきた普通の風景があります。
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篠原夏希の曾祖母、栄おばあちゃんは、室町時代から続く戦国一家、陣内家の大黒柱。
この栄おばあちゃんのお屋敷の門は、真田一族の居城“上田城”の東虎口櫓門(ひがしこぐちやぐらもん)とそっくり。
上田城は、天正11年(1583年)真田昌幸公が築城。徳川軍の攻撃を2度にわたって退けた名城です。
かつての戦場は桜の名所となり、現在は多くの観光客で賑わっています。
陣内家の床の間に鎮座する甲冑は、上田城を築城した真田昌幸公の甲冑か?
2度にわたって昌幸公に苦しめられた徳川家康は、昌幸公亡き後もその恐ろしさを忘れていませんでした。大坂冬の陣で子の信繁(幸村)公が大坂方に味方することになり、「真田殿大坂城入城!」の報に接した家康は狼狽し、「それは父か子か?」と聞き返したといいます。大阪城に入城したのが恐るべき昌幸公ではなく、子の信繁(幸村)公と知ってホッとしたのも束の間、大坂冬の陣及び夏の陣で、家康は信繁(幸村)公が父をも凌ぐ武将であることを知ることになります。
サマーウォーズには、陣内家のご先祖様の話が随所に登場します。第一次上田合戦、第二次上田合戦は、いずれも真田昌幸公が上田城で徳川軍を退けた伝説的な戦い。そして、物語のクライマックスで登場するのが次のセリフ。
「慶長20年の大坂夏の陣じゃ徳川15万の大軍勢に討って出た」
「でも負けたんじゃ・・・」
「(中略)負け戦だって戦うんだよウチはな」
もうおわかりでしょうか?このご先祖様こそ昌幸公の次男、真田信繁(幸村)公です。
大坂夏の陣における信繁(幸村)公最後の戦い。圧倒的な軍事力の差に大坂方が退却を始めると、信繁(幸村)公は家康の本陣へ突入しました。危険を察して逃げる家康、追撃する信繁(幸村)公。あと一歩で家康の首を取れるところまで迫るのですが・・・。
どんなに強い男でも、圧倒的な数の敵に囲まれ力尽きるときが来ます。家康をあと一歩のところまで追い詰めながら力尽きた信繁(幸村)公は、死の直前に何を思ったのでしょうか。池波正太郎「真田太平記」はこのシーンを次のように描写しています。
幸村は亡父真田昌幸へ、胸の内で語りかけた。
(いま一息のところにて、家康を逃がしてしまい申した。徳川家康は誠に強運の持ち主でござる)(中略)(なれど・・・・・・なれど左衛門佐(※注:信繁(幸村)公のこと)は、かく戦いまいた。父上、これで・・・これで、よろしゅうござるか?)
もしも、昌幸公が生きていたら、信繁(幸村)公に何と言葉をかけたのでしょうか?
再び家康と戦うことを夢みて配流の地「九度山」で没した昌幸公。そして、父の果たせなかった夢に殉じた信繁(幸村)公。2人の熱き魂が、今、「サマーウォーズ」でよみがえります!
家康の重臣本多忠勝の娘「小松姫」を妻に持つ昌幸公の長男信之公は、関ヶ原の戦いで東軍につき、父昌幸公、弟信繁(幸村)公と敵対することになりました。信之公を厚く信頼していた家康は、関ヶ原の戦いののち、昌幸公の上田領を信之公に与えますが、家康亡きあと、信之公は松代に移封となります。
松代藩は明治維新に至るまで真田家が治めました。そして、明治維新後、藩の重役さえ知らなかった信之公の秘蔵の文書が公開されますが、その中には、驚くべきことに、関ヶ原の戦いを前にした石田三成からの書状などの機密文書が含まれていたのです。
幕府に知られたらどんな目にあうかわからない危険な文書を、信之公はなぜ大切に保管していたのでしょうか。松代藩の基礎固めを終え、93歳で没した信之公は、ひょっとしたら、あの関ヶ原の戦いのとき、父や弟とともに家康を相手に戦いたかったのかもしれません。そして、その思いを胸に秘めて真田家を守り抜いたと考えることもできるのです。
信之公も昌幸公や信繁(幸村)公と同じように熱き魂を持った戦国武将だったのです。